もっと苦しんでいる人がいるという欺瞞
あなたより苦しんでいる人がいる。
世界では明日を生きることができない人がいる。
生きたくても生きれない人がいる。
自分が一番苦痛だと思うな。
私にはまるで理解できない言葉たちだ。
そりゃそうだろとしか言いようがない。誰かの物差しで測ればちっぽけな問題も、自分の物差しで測れば大きな問題だ。
そこで人は平均とか普通とか言った言葉で物事を図ろうとする。実際問題、その普通というのも偏見であふれているものなのだか、それは置いておくとしよう。
世にいう、普通で考えれば日本人の大半は幸せだろう。基本的に平和で、安全で暖かい寝床があり、お腹を膨らませることくらいはできる。
それだけで、たぶん、一般的に言えば、というか世界的な基準で言えば恵まれているわけだ。
でも、たくさんの人がつらそうな顔をしている。幸福度調査ではいつも下位だ。
まぁ、普通という言葉がどれだけ意味がなくて、苦しみがどれだけ不変的でなく、主観的に変化するものであるかということだ。
誰かにとって苦しいことが、誰かにとっては楽しいことがある。仕事にも言えるだろう。目立つことがにがてな人が芸能人なんてできないし、目立ちたい人・人と接したい人が黙々と工場のラインで作業するのは苦痛だろう。
苦しみになんて誰とも比べられない。
結局のところは、誰がなんて言おうと自分が苦しければ苦しい。
貧困に見える国でも幸せに暮らしている人間はたくさんいるだろう。
苦しみや悲しみ、楽しさ、そういった感情を誰かと比べて順位をつけることほど馬鹿らしいことはない。
たぶんだが、私より苦しんでいる人間はたくさんいるだろう。だけど、それが何だというのか。一番苦し人でなければ、苦しいと言ってはいけないのだろうか? さらに言えば、自分より苦しい人がいれば自分は苦しくないのだろうか?
そんなわけがない。自分より不幸な人間がいようがいなかろうが、自分が不幸だと思えば不幸だし、なんなら一番不幸と思えばそれはもうきっと一番不幸な人間だ。
もちろん逆もまた然りなのだろう。
だから私は言う。生きているのがつらい。叫びたい、吐きそうだ。苦しくて、前が真っ暗で、呼吸をするのも嫌になる。死にたいけど死ぬのが怖くて、そんな自分が愚かでまた嫌になる。本当に消えてしまいたい。安楽死ボタンが欲しい
きっと真面目で正義感の強い人は言うだろう
生きたいけど生きれなかった人に失礼だと
こんなことを本気で言える人は素晴らしいと思う。これは嘘偽りなく、あおっているわけでもなく、本心から素晴らしい人だと思う。
私はそこまで人のことを考えられないし、考えるつもりもない。
残念なことは私が生きる今日が誰かの生きれなかった明日だとは思わない。私の今日は私の今日で、私の昨日からの続きでしかない。その誰かが私の体の中に入って生活をしたとしても戸惑うばかりだろう。まだまだこれからの子供ならまだしも、何十年と生きてきた中年の中に入って、しかもそいつの人間関係はぐちゃぐちゃ。つまりは、見知らぬ人に恨まれ、嫌われ、蔑まれているのである。
そして、あなたが知っている人間は、あなたのことをまるで知らない。きっと変質者を見るような眼をしていることだろう。
ちょっと、脱線したので話を戻そう。
要は、結局のところ私は私でしかない。私の人生は私しか知らないし、私の苦しみは私にしかわからない。言葉は不確実で不安定なものだから、思いは言葉では通じない。同じ小説を読んでもまるで違う感想がでる。同じ映画をみても、まるで違う意見を持つ人がいる。同じ言葉でもまるで違う感じ方をする人がいる。
言葉なんて無駄で、通じない。さすれば、苦しみなんて通じるわけがない。私にとってはどうしようもないくらい深刻なことも、誰かにとってはかすり傷にもならないことなのだ。
要は他者なんて関係ない。世界で一番不幸とか幸せとか言うだけ無駄だ。かなり不幸や幸せを数値化できたとしても、ただそれだけの話で、自分より不幸な人間がいるから自分が幸せになるわけではない。
嫌でも人と比べられ、上級だ下級だといわれ、挙句の果てには誰かの作った普通にみんながみんな合わせにいって、弾かれ者を蔑む時代。
人の感情まで順位や優劣をつけはじめたら、それはもう本当にデストピアとしか言いようがない。
幸せな人は幸せと叫べ。不幸な奴は不幸と思え。
幸せになりたいなら幸せな人を見るんじゃなくて、自分の幸せを見つけろ。
足をひっぱるな。人と比べるから、誰かの足を引っ張ろうとする。くだらない世の中だ。
と、そんなこと言っている自分が一番気持ち悪くてくだらないと思ってしまったので、今日はこのへんで