一人ぼっちという生き方 世間と乖離して生きる

思いついたことを書きますので悪しからず

もう疲れたからちょっとだけ泣こうと思う

もう疲れた。

全てを投げ出したくなることが多いです。

自己破滅願望というのでしょうか? すべてを捨てて身一つでどこへでも行ってしまいたいです。

 

時々思います。このまま電車に乗って線路の続く限りどこまでもどこまでも行きたいと。だけど、どこへも行かず私はいつもの駅で下車します。いつもと同じ道を歩いて、時々ちょっとだけ違う道を歩いて帰ります。

 

叫びたい。だけど、こんな狭い部屋では叫んでいてはご近所迷惑。公園で叫んだら変質者だし、なかなか心のもやもやを吐き出すことができません。

 

だから、少しだけ泣こうと思います。別に誰が見ているわけでもありません。誰もいない部屋でさめざめと泣きます。

 

泣くと楽になります。泣くことは悪いことではありません。実際、涙は気持ちを楽にするという説もあります。なら、泣いたらいいでしょう。一人の部屋で枕に顔を突っ込んで泣きます

 

恰好つける必要はありません。頑張りすぎる人は自分に嘘をついて格好つけようとします。だけど自分は誰よりも自分の気持ちを知っています。強がって涙を我慢していることを知っています。

 

自分が自分を信じてあげられなくてどうするんでしょうか? 自分の気持ちに正直になって泣きたいときは泣きましょう。それが自分を認めるということです。怖い時は怖い、嫌なことは嫌だ。

 

人に合わせる必要はありません。自分を客観的に見る必要なんてありません。だって、一人でいるときはそれでいて誰にも迷惑をかけないからです。社会的にもなんの問題もありません。

 

だから一人ボッチは幸せです。飾る必要がないからです。いつでも自分の気持ちに正直に生きられます。常に一人ボッチでいることが良いか悪いかは人それぞれかもしれませんが、少なくとも、どんな人にも自分に正直になれる一人ボッチの時間が必要です。

 

泣いて泣いて泣いて。誰もいないところで泣く。

それでいいじゃありませんか

アンパンマンマーチから学ぶこと 生きることは幸せか

子供向けアニメの「アンパンマン

そのオープニング曲である「アンパンマンマーチ」は誰もが一度は聞いたことがあるでしょう。

 

子供のころは何となく聞いて、愛と勇気だけが友達なんて悲しいなとか笑っていましたが、改めて聞くと結構深いです。

 

【そうだうれしいんだ生きるよろこび たとえ胸の傷がいたんでも】

いきなり胸が痛い。

生きていれば傷つくことが非常にたくさんある。消えたくなるし、泣きたくなるし。

胸がずきずき痛んでも、それでも生きることは喜びなのだろうか?

私にはどうしても答えがでない。

 

生きていれば楽しいこともあるけど、でもやっぱり辛いことの方が多いと感じる。そもそも、生きるとは何かということだが、そこまで考えるときりがないのでやめておくとしよう。

私のように死んだように生きていても楽しいのだろうか?

 

そこで、もう少しみていくと、

 

【なんのために生まれてなにをして生きるのか答えられないなんてそんなのはいやだ!】

 

これは納得かもしれない。なんで生まれてなにをして生きるのか、目的を持って生きている人間はかっこいい。それは間違いない。もし、この問いに答えることができれば、たとえ胸の傷が痛んでも、生きることは喜びなのかもしれない。それは自分の喜びだけでなく、その目的が人を助け、他人の幸せという意味も含んでいるのかも。

 

もう少し曲を聞いてみると、

【今を生きることで熱いこころ燃えるだから君はいくんだほほえんで】

目的を持って生きている人は、今をしっかりと生きている。さすれば、その目的に向かって心を日々燃やしているともいえるのかもしれない。

アンパンマンは正義の味方。

愛と勇気をもってどんな危険にも飛び込んでいく。お腹を空かしている人を助けるため、愛と勇気で心を燃やす。みんなの笑顔のためにみんなの夢を守るためにどこまでもどこまでも微笑んで飛んでいく。

 

【なにが君の幸せなにをしてよろこぶ わからないままおわるそんなのはいやだ!】

これは本当にすごく心に響いた。

人間が生きていると周りに合わせたり、流行を気にしているうちに、自分にとって大切なこと、好きなこと、幸せなことを見失ってしまう。幸せになるために日々働いて、生きているはずなのに、いつの間にか手段が目的となってしまっている。

 

生きるために働いているのだろうか? 幸せに生きる。このために人は日々頑張っているのではないのだろうか。自分にとって幸せは何か? これを見失ってしまったとき人の胸の傷が痛むのかもしれない。

 

【忘れないで夢をこぼさないで涙だから君は飛ぶんだどこまでも】

夢と幸せはつながっているのかもしれない。夢にむかって努力をしているとき、そして夢がかなったとき、仮にかなわなかったとしても、夢がありそれに向けて熱い心を燃やしているときは幸せなのかもしれない。

 

何度もいうがアンパンマンは正義の味方。

みんなの夢を守るため、夢に向かって頑張るみんなが涙を流さなくてすむように、どこまでもどこまでも飛んでいく。

 

【時ははやくすぎる光る星は消えるだから君はいくんだほほえんで】

光陰矢の如し

何もしないには人の一生は短く、何かを成し遂げるには人の一生は短すぎる

こんな言葉があるように、夢を持った人の人生は瞬く間に過ぎていく。

だから、そんな輝きが消えるまでアンパンマンは飛び続ける。

 

みんなの夢を守るためにどこまでもどこまでも

 

 

 

 

 

自信は人を変えるのだろうか

自信の持ち方を知りたい。

自分に自信がある人は何事にも前向きで、よくわからないけど頼りがいがあるように見える。

それがたとえ根拠のない自信だとしても、一見はバイタリティ溢れる素晴らしい人のように思える。

 

卑屈がプラスになることは基本的にない。自信がなければ不安になるし、不安になればイライラする。でも、自信を持てと言われても、今まで卑屈に30年以上生きてきたわけだからどうしようもない。

 

でも、卑屈なるのも仕方がないとも思っている。まず、私は優れた人間ではない。勉強は苦手ではなかったので高校からは成績もまずまずで、2流といえる大学に入学できた。そこでも決して成績は悪くなかった。だけど、それだけだった。人よりコミュニケーション能力に劣り、そもそも仕事の才能がなかった。人よりも圧倒的に仕事ができなかった。電話が怖いし、すぐにいっぱいいっぱいになる。

 

なんでみんなあんなにできるか分からなかった。だけど、目に見えて違った。初めはできる人が集まっているのかと思っていたが、それも違った。自分ができないのだった。

転職を考えたが、自分の能力にあう仕事は少なくとも正社員レベルでは見つからなかった。

 

もし、私が自信満々に失敗に脅えず生きていたら、何か違ったのだろうか。失敗しても怒られても、自分に自信を持って前に進めていたら何か違ったのだろうか。

 

過去のことを今さら言っても遅いのはわかっている。だけど、未来は変えられる、とも私は思わない。冒頭にも述べたように私はずっと卑屈に生きてきた。それを今さら変えられるとも、少なくとも変えようとも思わない。

 

だから私はもう一つの道を選ぶことにした。卑屈と付き合って生きる。ある意味それは自分を認めてあげることなのだとも、ふと思った。

仕事が嫌になったなら

仕事ってとっても嫌ですよね。

偉そうなのに言っていることが明後日な上司とか、明らかにやる気がなくて口ばかり達者な同僚。そして、仕事できないくせにイライラしてばかりな自分。

 

自分が役に立っているかもわからず、一生懸命に働けど褒められるわけでなく、何かとアラを探してブツブツと文句を言われる。

 

みんなそうと言ってしまえばそこまでだが、みんなが辛いからといって自分が辛くないわけではないよね。みんな一緒だから仕方ないなんておかしくて、辛いものは辛いし、嫌なものは嫌だ。

 

人にダメ人間と言われようが、仕事ができなかろうが、周りにもっと苦しんでいる人がいようが自分が辛いものは辛い。誰かが苦しんでいることと、自分が苦しいことはまったくもって、どうしようもないくらいに関係のない事象だ。

 

だから、とやかく考えず辛いときは辛いと認めたらいい。そこから考えよう。そんでもって、まずは辛くならない方法を考えたらいい。仕事がつらいなら仕事を辞める。それでまずは解決。だけど辞めたら金をどうするか?

 

失業保険もあれば貯金だってあるかもしれない。バイトをしてもいい。生きるだけなら正社員やフルタイムで働かなくても生きていける。

 

もちろんそれでは結婚や子供は無理だ。何かを得るためには何かを失う。それは悲しいことに世の常。だけど、別に私は構わない。

人にとっての幸せが自分にとっての幸せとは限らない。少なくとも私は家庭を持つことよりも、ゆったりと自分の能力に合った仕事を自分にあったペースでする方が幸せだ。

 

残念なことに私は人より能力が低い。それなのに人と同じような仕事について、人と同じような人生を歩もうとすれば、それはきっとものすごい苦しさがあるだろう。

なら、あきらめるしかない。自分の能力を受け入れて、それにあった生活を送ること。これもまた一つの生き方だと私は思う。

 

もちろん、諦めずに一生懸命に頑張るのは素晴らしいし、個人的にはそういう人の方が好感だ。だけど、人の目なんて気にしても仕方ない。好感を持たれようが、たったそれだけのために心をすり減らすのはもったいない。

 

だから、諦めること。つまりは、自分がだめであること、もしくは自分の能力が現在の生き方、仕事に合っていないという現実を受け入れて前を向くこと。

 

それこそが明日を生きるための活力なのだろう。

人は一人では生きていけない されど人は一人でも生きていける

ご無沙汰でございます。色々ありました更新できませんでしたが、また頑張ります。

 

タイトルについてちょっと語ります。

人は一人では生きていけません。何故なら世の中、一人で生きていけないように設計されているからです。

勝手に森に入ったら怒られますし、木の実や動物を無許可で刈ったら捕まる可能性があります。川や海で好き放題魚や貝をとれば密漁で逮捕されることでしょう。

 

良くも悪くも世の中にはルールがあります。だからこそ世の中便利なのですが、だからこそ人は人なしでは生きられません。人なしで生きようとすれば自ずと法を犯し人に裁かれることになるでしょう。

 

人のために人がいて人のために人が苦しんで。

 

だから人は独りを認めません。一人で生きることは犯罪予備軍と思われているのかもしれません。

 

まぁ、苦しみながらもコミュニケーションをとることで世界は豊かなわけですから、文句ばかりも言っていられません。

 

ようは人と関わりながら一人で生きればいいのです。どういうことかというと、必要最小限人と関わるということです。

スーパーで買い物をするだけでも人と関わりますね?

家を借りても、電気を契約しても人とは関わります。それすらも否定してしまえば、生活は成り立ちません。

 

人と関わることがストレスなら、ストレスのかからないレベルで人と関わりましょう。一人という言葉を難しく考える必要はありません。

無職の一人暮らしならば十分に一人と言えるでしょう。

現代社会において完全なる一人という言葉には何の意味もありません。だって、少なくとも日本で暮らしている以上はどこかしらで人と関わることになるから。

 

だけど、それは大きな問題ではありません。難しく考えず、最低限人と関わることはシステムです。人は独りで生きていけないから、人と積極的に関わるのは是とするのは、暴論です。

人とのかかわりはシステムの中にあるわけですから、多少関わるのは当然。それ以外のところで人と関わりたくない、という意見も尊重されてもいいのではと思います。

 

長々と思考がまとまらない文になりました。すんません。

死にたいのか消えたいのか・・・生きたいのか

私はすぐに死にたいと言ってしまうタイプの人間です。

 

まぁ、本当に死ぬほど辛い時期が5年ほど続いたことがありまして、・・・今思うとあのとき自殺しなかった自分をほめてあげたい。

けど・・・あの時に死んでおけばよかったとも思う。

あの苦しみを我慢してしまったために、今死ぬのが勿体ない気がする。あんなに耐えたのに・・・それならあの時に・・・。

 

多分、私は死にたいわけではない。

正解は消えてしまいたいだ。存在をなかったことにしてほしい。全ての人の頭の中から私という存在を消して欲しい。

全てなかったことにしてほしい。

 

くだらないプライドなのでしょう。でも、死んだ後に自分が笑われている、死んだことを喜ばれていると考えると・・・凄く苦しくなります。

私は生粋の嫌われ者です。友達がいたことは一度もありません。職場で遊びに誘われはしますが、大人になっても仲間外れはよくないから仕方がなくという感じです。優しさはわかりますが、・・・慣れてしまえば仲間外れの方が楽です。

 

全てをリセットできれるのならば、私はすぐにでもそのボタンを押すことでしょう。

ああ、消えてしまいたい・・・。

 

でも、時々思うんです。本当は楽しく生きたいのだと。苦しくなくて、楽しい日々を送りたいのだと。・・・でも、そんな日々が思い浮かびません。楽しかった過去が思い浮かびません。思い浮かぶのは毎日のように泣いている自分です。

とある人の嘘で私の人生は大きく崩れかけました。・・・いえ、ぶっ壊れました。

何とか努力して、頑張って・・・。ようやく少しだけ元に戻りました。でも、その時はすでに25歳を超えていました。少し戻っても社会不適合でした。

 

もちろん、楽しいと感じたことは多々あります。でも・・・凄く楽しかった、嬉しかったという瞬間がどうにも思い浮かばない。日々の楽しさよりも、苦しさが勝っているのは言うまでもありませんでした。

 

だから、生きたいという感情があまり浮かばない。裕福な日本に生まれこんなことを言っているのは甘えなのでしょう。・・・でも、辛いんです。他の人がどれだけ辛い人生を送っているか何て知りません。他の国がどうとか知りません。

ただ一つ言えることは、辛いです。生きていることが辛いです。

 

楽しい人生を過ごしたいとぼんやり思います。でも、楽しい人生がどういうものか自分でも分からない。

 

いつか私も毎日が楽しく過ごせる日がくるのでしょうか?

死にたい・消えたいと思わずに生活できる日が一日でも来るでしょうか?

未来に日々笑顔の私はいるでしょうか?

 

そんな幻想を追い求めている、甘えた私です。

・・・もうしばらく生きてみます。過去にあれだけの痛みを耐えられたんだから、多分、もう何でも耐えられる。・・・でも、耐えたくはない。

 

まずは楽しい人生とは何かを考えることにします。

一人でいることを認めない国 日本

日本には「和」という言葉がある。

それは色々な所で使われていて、協調という意味で使われていることが多い気がします。例えば、和を乱す行動とか・・・。

 

言葉だけ聞くと素晴らしいように聞こえるのが「和」。

しかし、私はこの言葉を嫌いになりそうです。だって、日本人の言う和は強制的に人を和に組み込み、個人を排除するからだ。

リア充という言葉がそれだ。誰かと遊ばない奴はゴミ屑。ボッチはウンコ以下。だから、人と関わらない奴は苛めてもいい。苛められても仕方がない。苛められる奴に理由がある。・・・・・・。

 

気に食わないなぁ。そもそも日本人の和は誰かを輪から弾いて、そいつを目の敵にすることによって成り立っている。ボッチを見下すことで優越感を得る人が多い。

確かに協調性は大切だ。社会で生きて行くには、絶対に忘れてはいけない。でも、一人でいることを好むからといって、協調性がないとは思えない。

でも、そういう風に解釈する人は少ない。遊びの誘いを断る奴は協調性のないダメ人間らしい。

では、聞きたい。何故、君たちは遊びにいくのか、と。楽しむためでしょ?

なら、何故行くことを強制する。楽しめる人達だけで行けばいい。

少し前に友人が言っていた言葉がこれだ。

「みんな行くのに行かないのはおかしい」

みんなが行くから行くの? 我慢してまで行くものなのかな?

我慢してついてくる人間がいて、いったい誰が得をするのだろうか?

ただ集まって、私達は仲が良いと思い込みたいだけなのではないのだろうか?

 

誰も得をしない協調性を「和」というのならば、そんなものクソくらえ!

時には我慢して和を保つことが大切だろう。でも、常日頃からそれを強制され、楽しくない人生を送るのもまっぴら御免だ。

みんなが好きな選択肢を選べばいいじゃないか。誰かが傷つき、誰かが大きく損をするわけでないのならば、・・・好きに生きたらいいと思う。